幕末の頃、イギリスを中心に細菌学や衛生に関する医学が発展していたという話を進めてまいりました。今回はそんな幕末〜明治維新に日本で活躍したイギリス人医師、ウィリアム・ウィリスを紹介したいと思います。
彼は20年近く日本に滞在し、日本人女性と結婚。幕末の大きな流れに翻弄されながらも、軍陣病院(東京大学病院の前身)、鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学病院の前身)を開き、西洋医学を日本に広めた人としても有名です。
25歳で日本に渡ってきたのち、医官および外交官として働き始めます。来日して1年経たない頃に生麦事件が起こります。これは騎乗したまま大名行列に乗り入れたイギリス人商人、リチャードソンを薩摩藩士が無礼打ちし、のちに薩英戦争にまで発展した事件として知られています。ウィリスは亡くなったリチャードソンを検死したそうです。この事件、考え方は色々とありますが、今で言うと天皇一行の行列に、一般車両のまま横切ったため、「切捨御免」にされたと言うもの。「切捨御免」は当時の武士に与えられた特権だったと言うことですが、切捨後には役所に届け出る、自宅謹慎期間、証拠品を検分のために一時押収される、正当性を立証する証人が必要、などの条件も定められていたとのこと。ただ国際的に、殺人が合法化されるわけでもなく、イギリスとの衝突は避けられない状態でした。結果、先ほど少し触れました薩英戦争に発展しますが、これ、薩摩藩vsイギリスで普通に考えたらありえない規模の戦いです。今で言うなら、鹿児島県vsアメリカといったところでしょうか。もちろん薩摩藩は勝てるわけないのですが、最新兵器のアームストロング砲(射程距離が日本のものより格段に優れていた)などを目の当たりにして、一転。その後の外交も効いて、イギリスと薩摩はお互いに友好関係を深めます。
さて、ウィリス、彼も順風満帆、と言うわけではなかったようです。外科医の心得もあった彼は戦争・内乱での負傷兵の治療に力を注ぎます。しかし当時は攘夷思想(外国人あっちいけと言う考え方)が満ちており、外国人が国内にはいづらい雰囲気だったことが予想されます。さらに長崎を中心に蘭学から医学(蘭方医学)、蘭学医が学んだオランダ語の医学教科書がドイツ人医師によって書かれていたことなどが関わって、ドイツ医学を進めようと言う気風が出てきます。そして明治になってから、ドイツ人医学教師が来日するようになり、日本医学の中心はドイツ医学へと変わっていきます。そしてウィリスは鹿児島へと拠点を動かします。
鹿児島でも外国人冷遇の風は冷たく、ウィリスも当初は不満を漏らしていたようです。ところが奥さんを娶り、徐々に教育や医学での貢献が評価され、門下生からは高木兼寛(ビタミンの父、東京慈恵医科大学の創設者)などを輩出していきます。のちにバンコクでも医療の基礎を築きました。
ベッドサイドの教育(患者さんの病床で診療する姿や考え方を先生自らが示すことで、若手医師を教育する方法)に力を入れていた彼は「これほど人情味のある医師はいない」と評されることもあるほど。190cm、127kgの巨漢と言うこともあって、存在感があったことと想像できます。ぜひ会ってみたかった、と思える偉人の一人です。
あのままイギリス医学が日本の中心であり続けたら、今頃英語の論文を読むのに困らなかったのかな、などと一介の医師として考えたりしておりますが、歴史にタラ・レバはありません。大学時代に身に付けたドイツ語の名残?「エッセン」に向かおうと思います。何のことって?
食事です。
ではまた!
(加藤基)
参考文献
明治維新の際、日本の医療体制に何がおこったか 日東医誌 Kampo Med 57(6) 757-767, 2006
『ある英人医師の幕末維新―W・ウィリスの生涯』 ヒュー・コータッツィ著 中央公論社
ウィリアム・ウィリス wikipedia
切捨御免 wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E6%8D%A8%E5%BE%A1%E5%85%8D
薩英戦争 wikipedia